突然目が覚めた よって雑文支離滅裂

突然目が覚めた。

昨日の日記に書いたように31歳を迎えた。

今、午前2時過ぎで、とりあえず、焼酎を飲みながら色々考えた。。。

思考の覚書をしておこうと思う。


ディスカバリーチャンネルで見た番組で印象的な言葉が出てきた。

「この世に存在するプレーヤーは3者しかいない、人間と自然と機械だ、人間は自然を好むが、自然は機械と好む」


これは、ある有名な人の言葉であるが、非常に示唆に富んでる。

人間自身、ATPをエネルギーとして活動しているが、そのエネルギー効率を考えると生体機械としては格段の高効率を誇ってる。

蒸気機関のエネルギー効率がたしか5%以下だったこと記憶しており、ホタルの光、いわゆる酵素に夜、発光は98%のエネルギー効率であったことを考えると、確かに生体機械としての完成形態としての現状の生態系(たとえ、進化がすすんだとしても基本的なエネルギー利用法は変化しない)は非常に完成された形になっていると思われる。

話は、無機質な珪素の例になるが、東北大学学長の西沢先生(まだ学長であるかは確認してないので、東北大学のホームページででも確認をしてください)の静電誘導トランジスターはエネルギー効率が80%代であり、その研究により、一時期はノーベル賞受賞に関しても取りざたされたほどの効率である。

確かに生体触媒を利用したエネルギー効率と比較するとまだまだという状態であるが、逆の考え方をすると、残り約10%の進化の余地というものがあるということになる。

現在の中央演算装置の基本的設計は、計算機としての設計だが、根本的な設計を変化させることにより、さらに違う形での可能性が出てくるという事を模索しているであろう(特に研究者)其の中で、2つのアプローチがあると考えてる。

一つは、現在の珪素的なアプローチであり、もう一つは生体的なアプローチである。

例示すると、珪素的なアプローチとしては、NECの基礎研究所が数年前に基礎研究の発表をした量子コンピューター、生体的なアプローチとしては、核酸を利用した組み合わせによる計算方法。(これに関しては非常に煩雑な概念になるので自分で調べてほしい)

双方の長所、短所というものがあるので、双方を融合させた形態での人口的な演算、演繹装置が開発された場合、その装置が今の人間社会に与えるインパクトはどうなるのであろうか?

このような話をしたとしても、多くの人は理解しないと思う。

科学的な表皮を被った雑文であるが、このようなことを考えてるときが、自分自身の中で思考というものが活性化するという、困った性分である。

機会があったら、このような雑文を整理して、読み物として発表してみたいと考えてる。